INICIAR SESIÓN夜のSENOVA実証フロアで、燎が倒れかけた私を支えた。 「灯里。目を開けろ」 答えようとしたのに、声が出なかった。 「成瀬を呼べ。すぐに」 燎がスマホを下ろし、私の頬を支えた。 「灯里」 聞こえている。返事をしようとしたのに、声が出なかった。 燎の目が大きく見開かれた。 「灯里! おい、灯里!」 頬に添えた手で、私の顔を自分へ向ける。 この人が、こんな焦った顔をするんだ。 いつもの余裕なんて、少しもなかった。 そんなに呼ばなくても、聞こえているのに。 伝えたくても、もう唇が動かなかった。 「灯里!」 その声も遠くなっていった。 * * * 次に目を開けた時、私はSENOVAの休養室のベッドにいた。窓の外は暗いままで、枕元の時計が目に入った。 八時二十分。 奏汰へ電話する時間を、過ぎている。 「起きなくていいです」 燎が呼んだ成瀬医師が、ベッドの脇にいた。SENOVAの医療検証を担当し、あの会議で私の判断力を否定しなかった女性だ。 意識はすぐに戻ったが、そのあと眠っていたという。診察は済み、今は休む必要があると聞かされた。腕に力を入れると、まだ少し震えた。 「この数日、眠れていましたか。食事は取っていました?」 「この三晩は、二時過ぎまで仕事をしていました。昼食も、残してしまって」 答えてから、成瀬の目を見た。 「寝不足だけだと、思っていました」 「それだけとは、まだ言えません。今夜は、仕事を再開しないでください」 臨床ではなく研究に進んだけれど、私も医師免許は持っている。 休む必要は分かっていた。奏汰には食事も睡眠も守らせていた。その私が、自分だけはもう少し平気だと思っていたのだ。 端末へ戻るつもりは、もうなかった。 それより、奏汰との約束が気になった。 こんな身体で、どうやって帰るの? 朝、約束したばかりだったのに。 「奏汰に、電話を」 燎が椅子から立ち、私のスマホを手渡した。 成瀬が背を起こすのを手伝い、短く話したら横になるようにと言って、隣の部屋へ移った。 電話は、三枝が出た。 「奏汰は、まだ起きていますか」 「いらっしゃいますよ。先ほど鷺宮さまから、少し遅くなると伺いました」 燎を見る。 彼は私の背へ、枕をもう一つ入
「なら、君の名前で勝て。俺の隣で」 夜のSENOVA実証フロアで、燎が私の耳元に囁いた。 低い声と一緒に、熱い吐息が耳をかすめた。 首筋までぞくりとする。 こんなに近くで言わなくても、聞こえるのに。 燎が顔を離し、食卓の向かいへ身体を戻した。私はその目を見た。 正臣に、私を捨てたことを後悔させたい。でも、燎に見てほしいのは、正臣に愛されていた私ではない。 今、一緒に仕事をしている私を、燎に見てほしい。嬉しいことがあると、まず燎に話したくなる。私の話を聞いて、嬉しそうに笑ってほしい。 神崎教授たちが一緒に作ると言ってくれた時も、真っ先に燎へ知らせに行った。燎が呼んでくれたから、だけではない。二人の返事を、燎にも喜んでほしかったのだ。 「勝つところを見たいって、言ったわよね」 「それも見たい。君は勝ち誇っている時が一番美しいから。俺を欲しがる君も見たい」 何を言っているの。 頬が熱くなった。 けれど、私も燎にもっと夢中になってほしかった。 選考に勝った私を見て、この人はどんな顔をするのだろう。 いつも余裕のある、その顔を変えてみたい。 仕事で勝って、この人の心までつかめたら。 私は口元を緩め、燎を見返した。 「何を考えた」 「教えない」 燎は簡単に目をそらさなかった。 いつもなら、先に私が端末へ目を戻していた。今日は、そうしたくなかった。 「その顔で隠せると思っているのか」 「何でも分かるなら、聞かなくていいでしょう」 燎が目を細め、私の顔をのぞき込んだ。 通った鼻筋も、形のいい唇も、近くで見ると困るくらい好みだ。 今考えたことまで教えたら、また得意そうに笑われる。 勝った時には、私の方から燎の顔をのぞき込んでみたい。今みたいに余裕のある顔でいられるか、確かめたかった。 私はパンを一つ取って口へ運んだ。 燎も皿からパンを一つ取った。食べ終わるまで、私は端末には触れなかった。 「この数日、帰ってからも仕事をしていたのか」 「仕事のことを考えてただけ」 「眠っている時に考えていたわけじゃないだろう」 言い返せなかった。 「今日仕事を止めたら、莉乃たちに追いつけない気がしたの」 口にする
「天野とは、学会で会っただけよ。ほかでは会ってないわ」 朝のSENOVA実証フロアで、私は燎を見上げた。 腰を抱かれたまま答えたのに、燎の目はまだ冷たい。 「僕のこと、そんなに気になる? 僕は、その手の方が気になるけど」 天野が、私の腰を抱く燎の手を見た。 燎は手を離さず、天野へ言った。 「君に聞いていない」 天野は、燎の不機嫌な顔を見ても笑っていた。 「自分で呼んだのに」 天野を呼んだのは燎だ。 燎はさっきまで、天野がどれほど仕事のできる人間かと言っていたのに。天野が私を名前で呼んだだけで、どうしてそんな顔になるの。 天野が燎の顔へ目を上げ、笑みを深めた。 「へえ。燎も、そんな顔するんだ」 燎が天野を見た。その目がいっそう冷たくなっても、天野は笑うのをやめなかった。 「見物しにきただけなら帰れ」 燎に言われても、天野は平気な顔だった。 「仕事の話も聞きたいよ。もちろん」 この人、わざと言っている。 燎を怒らせるのが、そんなに楽しいの? 「人選の話は、まだ終わってないわ」 腰を抱く燎の手へ触れると、燎が私を見た。 「天野と組むかどうかは、私が決める。今日は、私が作ろうとしている製品の話をするだけ。それでいい?」 天野へも目を向けると、彼が頷いた。 「いいよ。僕も、まだ見せてもらってないからね」 天野がテーブルへ向かった。 この人と仲良くなりたいわけではない。でも、莉乃に私の仕事を奪われたまま負けるのは、もっと嫌だった。 一緒に働ける相手かどうか、私が確かめる。 燎の手を腰から外し、私も端末を持ち直した。 隣を通る時、燎が低く言った。 「仕事の相手として呼んだ。君に近づけるためじゃない」 燎の顔を見ると、少しも笑っていなかった。 勝手に天野を呼んだことには腹が立つ。それなのに、天野に私の名前を呼ばれて不機嫌になる燎を見ると、なぜか嬉しくなりそうだった。 *** その日の夜、私はSENOVA実証フロアの食卓に座っていた。 天野は帰り、フロアには私だけが残っていた。 スマホの時刻は七時五十分。八時には奏汰へ電話する。 昨夜のように電話が遅れないよう、スマホを仕事用の端末の横へ置いた。 共同開発の選考に間に合わせたくて、この三晩は二時過ぎまで仕事を
「……なんで、あなたがここにいるの?」 朝のSENOVA実証フロアで、私は入ってきた男を睨んだ。 天野透真。学会で私の製品を「クソだ」と言った男だ。 柔らかい黒髪に、長い睫毛。私と同じ年なのに、笑うと少年みたいに見える。初めて会った時も、その綺麗な顔に騙された。 「久しぶり。相変わらず、美人なのに怖い顔するね。……美人だから余計に怖いのかな」 天野が続けるより先に、燎が私の隣へ立った。 「君のチームメイトだ」 「……何ですって?」 私は燎を振り向いた。 「なんで私に黙って、そんなことを決めるの?」 「実際に使って、問題を見つける人間が要る。天野はその専門だ」 「この人だけは嫌」 「理由は」 天野が、小さく吹き出した。 「本人の前で、そこまで言う?」 「あなたも学会で言ったでしょう。私が目の前にいるのに」 「だって、使えないプロダクトだったから」 あの時と同じ顔で笑っている。 父と何度も試し、奏汰が眠った後も直して、ようやく発表できたものだった。それを、この人は一言で切り捨てた。 質問には、最後まで答えた。この人の前で、分からないまま帰るのは嫌だった。 指摘されたところを直したら、確かに使いやすくなった。 悔しいけれど、それは認めるしかない。 でも、本人に会うと、発表の途中で笑われたことまで思い出してしまう。 「あなたに、もう一度あんな言い方をされるつもりはないわ」 「じゃあ、言わせないものを作ればいい」 また、この人の相手をするの? 一緒に作るところなんて、想像したくなかった。 「燎。別の人を探して」 「こいつ以上の人間はいない」 「一緒に働くのは私よ」 燎は答えず、天野へ目を向けた。 私が嫌だと言っても、帰すつもりはないらしい。 「私の会社よ。誰を入れるか、私が決める」 燎の目が細くなった。 「君は天才だ。だが、君には足りないものがある」 「何が足りないか、あなたに決めてほしくない」 「君と互角に議論できる人間だ」 天野が、楽しそうに私を見る。 「よく分かってるね」 「あなたは黙ってて」 燎は私を見たまま、続けた。 「俺は、君に足りないものを全部そろえているんだ」 「頼んでいないものまで?」 「勝ちたくないのか」 言葉が詰まった。
「泊まるの?」 久条屋敷の客間前の廊下で、莉乃は柊吾を見た。 「志津子さんに勧められた。話が長くなったからな」 正臣の母である志津子と、新社長に就任した柊吾。 そんなに親しかったの? 「それで、こんな時間に何をしてるの?」 柊吾はガウン姿の莉乃へ目を落とし、口元だけで笑った。 「水を取りに出ただけだ。……君こそ、正臣はご機嫌だったか」 莉乃は答えなかった。あの寝室でのことを、柊吾には話したくなかった。 答えない莉乃を気にした様子もなく、柊吾は話題を変えた。 「子供が絵で答えられるようにしたのは、君だろう。昨日の説明を聞いた。明日、開発の連中にも聞かせてくれ」 正臣は、笑った口元が違うと言った。 柊吾が見ていたのは、自分が考えて変えたところだ。灯里ではなく、莉乃として。 正臣に、また抱きしめてほしい。 それなのに、この男の前からも離れたくなかった。 「明日、行くわ」 その約束を、正臣には言わないでおこう。 階段へ向かいかけて、莉乃は足を止めた。 志津子が歩いてくる。顎で切りそろえた白髪はいつもと同じなのに、着ているのは絹の寝間着だった。 「待たせたわね」 莉乃への言葉ではなかった。 志津子は柊吾の襟をつかんで引き寄せ、唇を重ねた。柊吾の手が、ためらいもなくその腰を抱く。 正臣の母親と、柊吾が。 莉乃は二人を見つめたまま、動けなかった。 どういうことなの。 柊吾よりもずっと年上の志津子が、当たり前のように口づけている。 正臣まで言葉を選ぶ、この人だ。今も、息子はすぐ近くの寝室で眠っている。 会社の話をするために招いたのではなかったのか。 柊吾は、その手を離さなかった。 押しつけられているのなら、こんなふうに腰を抱くだろうか。 さっき自分を褒めてくれた口が、志津子へ笑いかける。その顔を見る方が、キスを見た時より嫌だった。 「……正臣さまは、ご存じなんですか」 志津子がこちらを向いた。襟にかけた手は、そのままだ。 光のない、黒々とした目が莉乃を見据えた。 「私が誰を選ぶか、息子に許してもらう必要はありません」 見られたことを、気にしてもいない。 莉乃が返事を探していると、志津子は続けた。 「柊吾さんに頼まれなければ、あなたをこの家に置くつもりは
正臣の親指が、莉乃の口の端をなぞった。 「笑うと、ここがこんなに上がったかな」 莉乃は、何も答えられなかった。 その口元を、この人は見比べている。今、ここにいない灯里と。 「……変ですか」 正臣の指が離れた。 怒られるよりも嫌だった。もう触れたくなくなったのだろうか。 「変じゃないよ。少し違って見えただけだ」 名前を呼んでほしいとは言わずにいた。灯里として扱われることも、自分で選んだ。 でも、楽しくて笑った時くらい、自分のままでいたかった。 どうして、そんなところまで見つけるの。 自分が笑ったことを喜んでくれたと思っていた分、悔しかった。 正臣は優しい顔のままだった。 莉乃は口を開きかけた。昨日の質問に答えたのも、今夜ここにいたのも、私でしょう。そう言ったら、この人はどんな顔をするのだろう。 言えなかった。 あんなふうに甘えたからだ。灯里の笑い方を忘れて、自分のままで笑ってしまったから。 「気のせいかな。おいで、灯里」 差し出された腕の中へ、莉乃は戻った。 さっきはあれほど嬉しかったのに、今は顔を見られたくなかった。 「疲れたんだね。もう寝よう」 正臣が髪を撫でる。 莉乃は、そっと顔を上げた。 「もし、私が灯里じゃなかったら、どうしますか」 正臣の手が止まった。 見とれるほど整った顔に、優しい笑みが浮かんでいた。 その目が、ゆっくりと見開かれる。莉乃が笑ってみせても、正臣はまばたきもせず、その顔を見つめていた。 「……正臣さま?」 「大丈夫だよ」 正臣の指が、もう一度、莉乃の頬に触れた。 「僕が、ちゃんと灯里に戻してあげる」 さっき褒めてくれた時と、同じ声だった。 莉乃は頬に触れる手を両手で包んだ。怖がったことまで、気づかれたくなかった。 「……はい」 自分のままでも愛してくれるか、聞きたかっただけなのに。 もう、聞き直せなかった。 その手に頬を寄せたまま、莉乃は口元が見えないように顔を伏せた。 正臣の胸に額を押しつけると、彼は何も聞かずに、また髪を撫で始めた。 こんなに近くにいるのに、好きだと言ってほしいとさえ言えない。 優しい声が欲しかった。けれど、顔を上げれば、また違うところを見つけられるかもしれない。 莉乃は、眠くなった







